知的饕餮日記

はてな女子で知識欲の亡者で発達障害で腐女子な人の日常だったり恨み節だったり

バカミスの定義 ~ 『悠木まどかは神かもしれない』と『ソードアート・オンライン』の間

日本ミステリ界には、『バカミス』と定義される作品群がある。
この言葉の定義は人によって大いに違うのだが(Wikipediaさんでも一定ではない)、私は『ものすごい頭脳的・論理的膂力で世界を一変させるもの』だと思っている。
一番わかりやすいのは叙述トリックであろう。話者、ひいては作者が、注意深く『あること』を取り扱い、『あるもの』を読者の視界から取り除く。「あれ?なんかおかしいな」と思いながら読み進める読者は、クライマックスで明かされる『あるもの』の真実にびっくり仰天する。
日常生活とは違い、フィクションで騙されることは、作者の稚気やいたずら心を強く感じ、その手腕に騙されてしまうことに快楽を覚えるうち、その中毒になる。
かくしてバカミス中毒者は東に叙述あれば行って買い求め、西に館ものあれば行って感想を言う。

そんな中、『悠木まどかは神かもしれない』という作品が『バカミス』である、という噂を聞いた。

悠木まどかは神かもしれない (新潮文庫)

悠木まどかは神かもしれない (新潮文庫)

早速買い求めた。そして昨日読了した。
感想を一言で言えば、「紛らわしいことを言うな!」であった。
確かに帯には『バカミス』と書いてある。タイトルで『魔法少女まどか☆マギカ』ファンを釣りながら、バカミス愛好家をも取り込む気満々のマーケティングである。前者はともかく、後者は『より純粋に騙される』ために、タイトル以外の情報を事前にシャットアウトすることが多い。事実、私もなるべく帯や煽りを見ないように、ブックカバーを装着して読書に臨んだ。
実際、バカバカしさは図抜けている。
進学塾の御三家コースに通う小学五年生の主人公・小田桐美留(おだぎり・びる、男児。通称小田桐キョージュ)にとって、学校はあまり楽しい場所ではないことがうかがえる(ビル・ゲイツにあやかった名前だが、学校では字面から『留美ちゃん』と呼ばれ、からかわれているらしい。いわゆるキラキラネームをつける親の警鐘を鳴らすくだりもある)。そんな彼にとっての安らぎは、アインシュタイン進学教室の御三家コースでの受験勉強、また同じコースに通う才色兼備の美少女、悠木和(まどか)を見ること、また塾での勉強が終わった後にマッテルバーガーで『キョージュ会』を開くことである。
このマッテルバーガーの店舗設定がおかしい。我々の世界におけるマクドナルドに近いようだが、門構えから居酒屋風で、ファストフード店然としていない。店長はねじり鉢巻を頭に巻いて江戸っ子調で喋る大将風、レジスター担当は制服ではなくナポレオンのような軍服を着ている男装の麗人、新入りは日本文化に憧れて店長に弟子入りするオーストラリア人である。「こんなマッテルバーガーはこの店くらい」という描写があるように、この世界でのスタンダードなファストフード店であるわけではない。
そして小田桐キョージュたちがキョージュ会で角突き合わせて挑む謎が、極めて日常的である。それはミステリという、血なまぐささが目立つジャンルにおいては「バカバカしい」とされるものかもしれず、それゆえ帯には『バカミス』と記されているのであろう。

だが、バカミス愛好家の求めるバカミスは、こういうものではない。

「実はレールでした!」「実は老人でした!」「実はニャルラトホテップでした!」といった真相を覆い隠すために幾重もの論理的罠を張り、読者を幻惑させ、真相を知った読者が先頭から読み返しても破綻なく収まっているもの、ひとつの驚愕すべき真実のために作品のすべての要素が奉仕しているもの、あくまでフェアなもの、それをバカミスと呼ぶのである。

しかし、論理的罠があり、破綻がないものをすべてバカミスと呼ぶわけではない。

それを説明するために、『ソードアート・オンライン』(通称SAO)の例を引こう。

今更私などが解説するのも口はばったいが、『ソードアート・オンライン』はこういう話である。
近未来、特殊なヘッドギアが発明され、仮想空間を現実のように受容できるMMORPGソードアート・オンライン」がリリースされる。
ゲーマーたちは競ってその世界へ入るが、開発者の悪意ある改変により、全員ログアウト不可能になってしまう。
おまけに、前述の特殊なヘッドギアのせいで、ゲーム内で死ねば現実世界の肉体も死に、外部から強制的にヘッドギアを取り除こうとすれば脳が損傷される、と脅され、約1万人のユーザーたちは窮地に陥る。
そんな絶望とそれに対する順応の入り混じる中、主人公のキリトくんが、ゲーム攻略に活躍したり、仲間との死別を味わったり、ヒロインのアスナちゃんとの仲を深めたりする。
実は私も原作は未読で、アニメの再放送を視聴しているだけなので、あまり大きなことは言えない。作者の川原礫氏はFSSファンということで親近感があり、デビュー作の『アクセル・ワールド』も購入してはいるのだが、積読本の山に埋もれている始末である。
閑話休題
作中、キリトくんとアスナちゃんの前で、殺人事件が起きる。
前述の通り、作中世界は、どれほど精巧であろうと、プログラム内での挙動でしかない。そのため、死ねば遺体は消える、現実的には実現不可能な道具もアイテムとして開発できる、といった現実世界との相違点がある。
こういったことを踏まえ、キリトくんたちは事件を解決する。真相を語る場ではないのでここでは書かない。
アニメを視聴しながら、私は「バカミスっぽいなー」と思った。SAO世界においてのみ実現するシチュエーションを用いているからだ。
しかしすぐに脳内バカミス審査装置が働き、「これはバカミスではない」という結論に至った。

バカミスバカミスでないものを分けるもの

理由は明快で、『SAOがトリックのために造られた世界ではない』からだ。
確かにMMORPG・SAOでなければ成立しないトリックが用いられ、その論理に基づいた推理がなされる。
しかしそれはあくまでゲームシステムに則ったものである。「地球の重力は約1G」「月の重力は約1/6G」という物理原則を用いたトリックと、本質的には変わらない。
我々の愛するバカミスは、『そのトリックを成立させるためだけにすべての要素が奉仕している』ものである。
突飛な設定も、登場人物の奇妙な挙動も、すべてがラストで驚愕するために配置されている。それがバカミスなのだ。
もしもSAOというゲームシステムが、このトリックを成立させるためだけに存在するものであれば、私は敬意をもって『バカミス』の冠を捧げる。
しかし、実際の事件は、SAOのゲームシステムを利用しただけの犯罪であった。この事件の中で、いくつかのゲームシステムが説明され、キャラクターが描写され、設定が明かされた。このトリックのためにゲームシステムがあるわけではなく、ゲームシステムのためにトリックがある。

『手段』と『目的』

結局、バカミスでないものとバカミスを分かつ条件は、上の言葉に象徴されるのではないだろうか。
どれほどバカバカしいものでも、それが『手段』でしかないならバカミスではない。『目的』に集約されるならバカミスである。

子供は案外細かいことを気にするよという話

ネーミングは重要である。
データのファイル名も、newpage1.html、newpage2.html、…などというのがいくつも続いてはわけがわからなくなる。そのデータの性質や作成年月日、用途によって適切な名前を考えなければならない。
いわんや人名をや。

萌え対象様の配偶者さんとほぼ同姓同名

これが私の本名である。例えて言うと『ダルビッシュ冴子』みたいな感じである。私ダルさんが生まれてくる前からダルビッシュだったんですけど!と言いたくなることも一度や二度ではない(もちろん『ダルビッシュ』はフェイクである)
本物の萌え対象様は、ダルさんとは違って今のところ離婚するような兆しはない。お子さんもいることだし、離婚を願っていたりはしていない。
ただふとした拍子に「この人ダルビッシュ(フェイク)が好きすぎて本名いじったんじゃないか」と誰かから思われているのではないかと恐怖する。

どうも名づけの理由がわからない

自分の名前にどんな意味があるのか、という作文を、小学生時代に書いた人は決して少なくはないだろう。
そういった際に、親からどんな思いを受け取ったのか、知る機会があればよかったのだが、残念ながら私の通っていた学校にはその宿題は出なかった。
そして、私の名前は兄たちとは明らかに異質である。
以下ある程度のフェイクを交えて説明する。
兄1は、祖父(とされる人物)の『宏』と、父の『和夫』から1字ずつ取って、『宏和』と名づけられた。
兄2は、祖母(とされるクソババア)の『書』と、母の『漢美』から取って、『漢書』と名づけられた。
以前中国の服飾史の本を読んでいたら、今までにない勢いで兄の名前が出まくって驚いた。人名としては少し珍しい名前で、今まで同名の人すら見たことなかったのに。
かといって、クソな大人どもが「劉邦大好き!尊敬してます!」と思って命名した、なんてことはまったくない。おそらく劉邦のことも知らなければ、漢の史書の名前が『漢書』であることすら知らないだろう。
フェイクでない、本物の王朝の創始者は、劉邦よりもはるかにアレな行状が知られている人物なので、その人物を知っていて敢えてその王朝の歴史書の名前をつけるとは思えない。
つまり何も調べなければ考えもしない、いい加減な人たちだったのである。

そして私の名前だが

この『周囲の大人から一文字ずつ取る』という法則から外れている。
子供の頃は別に気にしていなかったが、恨みを込めて見るとどうにも苛立ちが勝る。
もし私がもう少し大らかでない子供だったとしたら、「もしかして私はこの家の子じゃないのかもしれない…!」などと思い悩んでいたかもしれない。
実際に私が思い悩んだかどうかよりも、そういったことを防ぐ気遣いの欠如が、無性に腹立たしいのである。
正直、彼らは私の名前をあみだくじかさいころで決めたのではないかと疑っていた。
そうでなければ、名づけた生き物に対して、ことごとくその名前に反した仕打ちを加えるはずがない…と思っていた。

しかし

2013年、私は唐突に気づいた。
要するに彼らは馬鹿なのだ。自分の行為によって相手がどう思うかなどは考えず、本能と反射で動く生き物なのだ。到底社会的な動物ではないのだ。
そんな馬鹿の本能と反射に、何か人間的な意思があるかもしれない、あるはずだ、あるに決まっていると読み取ろうとするから腹が立つ。
そんなものはない。ないものを探しても見つかるはずがない。
そう思うことで、少しだけ楽になった。と同時に悲しくなった。
自分の親が馬鹿であると認めるのは、そう愉快なことではない。
子供に自分たちが馬鹿だと見抜かれないように、日々考えて挙動することが、将来の子供のために重要である。

カネコマに贈る発達障害者の7つのケチなライフハック(略してケチハック)

療育を受けられなかった成人の発達障害者特有の、目的意識がないと何もできない性分である。受験勉強ではそこそこ成功して、社会へ出たらものの見事に落ちこぼれて落伍者になった辺りからも、そのクズっぷりの片鱗がうかがえる。細分化はできても、抽象化した概念を再構成して具体化する能力が極めて乏しいのである。
そんな私が一念発起して貯蓄をしようと志してみた次第と、そのための具体的な方法を記してみる。

身も蓋もない話

PCが壊れた。
これがすべての始まりである。
日常生活においては必ずしもPCは必要不可欠ではない。プログラミングやデザインで生計を立てているならともかく、ただインターネットを渉猟して賢くなった気になったり、Evernoteを開いて小説を書く環境だけ整えてモチベーションの上がるのを待ったり(自発的に上がることはない)、艦隊これくしょん(通称艦これ)にずっとログインして駆逐艦の不知火ちゃんとケッコンカッコカリ(ゲーム上のシステム、要するに結婚)するために血道を上げるのは、人生の潤いではあっても、必ずなくてはならないものではない。基本的には。
ただ、私は既に廃人提督へとジョブチェンジを済ませていた。予備艦隊を遠征へ出さないと落ち着かない。整備ドックに空きがあると罪悪感さえ覚える。何よりも早く不知火ちゃんを嫁にしたい。
幸い、回線が止まったわけではないから、PS3ブラウジング機能でインターネットを閲覧することはできた。しかし、DMMの会員ページにログインはできるが、艦これを起動させることができない。WindowsもしくはMacInternet ExplorerFireFoxGoogle Chromeでの起動を前提としているので、当然ではある。PS3ブラウジングする人の少なさを考えれば、わざわざPS3専用ブラウザ用にセッティングしたヴァージョンの出る日は来ないであろう。
艦これ環境を求めるあまり、楽天で投げ売りされていた5000円の中古PCを買った。OSはWindowsXPである。念のため説明しておくと、XPは10年以上前にリリースされたOSで、2014年4月9日(日本時間)をもって、Windowsのサポートが終了する。つまりあと48日しか使えない。だから安い。
「次のマシンが来たらこれはスタンダロン(stand alone・ネットに繋がない状態)にして有効な活用法を探そう」と決めたはいいものの、やはりポンコツPCを使うのはストレスがたまる。ChromeiTunesEvernoteとTweenとJaneを開きっ放しにした快適な環境を得たい。
そこで冒頭の一念発起が訪れる。節約をしてPCを買おう!快適な提督生活を手に入れよう!と強く発心したのである。

目標設定

目標はこの「Acer ICONIA W3-810+BTキーボードセット」である。
http://lohaco.jp/product/9099926/
まず小さくて頭がいい。あまり大きいと、寝転がったままブラウジングというお行儀の悪い行為ができない。そしてタブレットである上にキーボードまでついてくる。Officeは必須ではないがあれば便利だ。その上Tポイントが貯まる。ポイント厨なので単純に嬉しい。価格設定も比較的現実味がある。
目標ができたところで、そこへ近づくための方策を考える。

7のケチハック

1.必要でないものは買わない

当たり前である。いつ読むかわからない本、痩せたら着ようと思っている服、飲まなくても深刻に健康を損なうことのないビタミン剤、これらはみんな『今買う必要がない』。目標のために自制心を持てば、買うことを我慢できる。衝動を抑えるのは、いつでも理性である。

2.本はamazonで買える

バブル崩壊以降、世間の景気と関わらず、『出版不況』がずっと続いている。紙の本は売れない、だから刷らない、流通しない、だから売れない、という悪循環が定着してしまっている。
筆者は自他ともに認める書痴なので、『へうげもの』の古田織部のように、本を『お救いする』感覚で買ってしまう。店舗で見かけることが少ない会社やレーベルの本を見ると、衝動買いをしてしまう傾向がある。
しかし、安土桃山時代の数寄者とは違い、21世紀の我々にはamazonがある。amazonの倉庫には、あらかたの新刊書が眠っている。中古本も、足しげく古書店街やBOOK OFFへ通うよりもはるかに楽に買えるようになった。『目の前のチャンス』を逃しても。そのうち買える可能性が限りなく高い。Kindleタブレットがあれば、電子書籍を購入する機会もできる。
時たま在庫僅少でプレミアがつくものも出るが、それは潔く諦めよう。

3.飲み物は茶を飲む

生命活動に水分は必要不可欠である。水道水や井戸水や湧水のおいしい地域ならそれを飲めばいいが、残念ながら筆者の住む新宿区は水がまずい。沸騰させずに飲むと、吐き気さえ催す。
だからといって飲み物をペットボトル飲料に頼るのは、まったく経済的ではない。
そこで、自分で淹れるお茶を飲む。茶葉はまとめて買えば安いし、保温のできる水筒を持ち歩けば、自動販売機でペットボトルを買うような不経済な行為とはお別れできる。ティーポットや急須がない、という人には、自分で好きな種類・好きな量の茶葉を入れることのできる空のティーバッグも売っている。
筆者は甜茶韃靼そば茶と黒豆茶ルイボスティーを愛飲しているが、アレルギー等と相談しながら、自分に合うお茶を探すと、『健康にいい』気分を味わうことができて躁になれる。

4.なるべく自炊する

紙媒体をPDF化するのではなく、食事を作成することである。
時たま「自炊の方が食費がかさむ」という意見を耳にするが、それはおそらく1回につき一人分の食事を作っているためである。料理に限らず、いっぺんに作り置きした方が安く上がる。幸い今は冬である。多少作り置きをしても、夏場よりは食物の腐るスピードは遅い。おそらく普通の人は『毎日同じものを食べる』と飽きが来るのだろうが、そこは反復作業大好きな発達障害者の数少ない利点を活かし、毎日決まったように同じものを食べるのである。
筆者は『脂肪燃焼スープ』 http://matome.naver.jp/odai/2137973226853790601 のレシピを参考に、約3日に1回の割合で野菜を切り刻んで煮込んでいる。毎日食べることが前提なので、自主的に豆腐など蛋白源も加えている。料理をするのが面倒くさい人間でも、その程度ならできる。

5.食材はまとめ買いする

3や4の話と重複する部分があるが、食材に限らず、個包装されたものよりもサイズの大きいものの方が、同じ容量当たりの単価が安くなる。
ハナマサなどの業務用スーパーや、大きな単位を扱っているインターネット上の店舗を見つけるといいだろう。ちなみに筆者はLOHACOを愛用している。5kgの無洗米やかさばるトイレットペーパーなどを玄関先まで運んでくれるので、楽ちんである。

6.公共料金プランを見直す

一人暮らしをしていると、公共料金やそれに準ずるものの支払いを余儀なくされる。電気、ガス、水道、インターネット回線、携帯電話などである。
この中で、比較的料金の見直しのしやすいのが、インターネット回線と携帯電話である。代理店との契約の縛りや店頭で店員さんの口説き文句から、ほとんど(あるいはまったく)利用していないサービスの料金を払ってはいないだろうか。一度明細をきちんと見て、確認をする必要がある。
筆者もまったく使っていないNTT東日本の『リモートサポートサービス』を解約する必要に迫られている。

7.プチプラコスメを探す

これは女性特有の悩みかもしれないが、加齢するとどうしても肌も劣化する。それは避けられない現実である。
整形をするという手段もあるが、百万円単位の医療費を捻出できる人はそもそもこんなケチハックなどを実行に移してはいないはずだ。
そこで、よりコストパフォーマンスのいい化粧品を探す旅が必要となる。
例えばニベアは、数ヶ月前に高級クリーム『ドゥ・ラ・メール』と成分がだいたい一緒、と話題になり、爆発的に売れた。また、資生堂の老舗ブランド『ドルックス』は100年近く販売を続けて目立った事故を起こしていないので、一定の信頼感を得ている。
また、スキンケア成分の肌への浸透を助ける『導入美容液』という商品がいろいろまメーカーから多数販売されているが、これは動植物由来のオイルで代用できる。手に入りやすいところでは無印良品で売っているホホバオイル、ドラッグストアで買える馬油がこれに該当する。
その他、値段に見合わない活躍をする、いわゆる『コスパ』のいい商品を探すのは、非常に楽しい。2ちゃんねる化粧板や、日本最大の口コミサイト『アットコスメ』などを見て、おすすめされていた商品を買い求めるのもいい。
お金がなければ手間をかければよいのである。

こういったことの小さな積み重ねで、いずれ大きな成果を得たいと考えている。
成功体験に乏しく、承認欲求に飢えており、自己肯定感の少ない人間には、少しでも自分を世界に認証させる手続きが必要なのである。

無理解という消極的な、しかし巨大な虐待

数回書いた通り、私は先天性の発達障害である。いわゆる「発達あるある」は9割方体験してきた。

諸々の事情により、ご実家(あれが自分の育った環境であることにどうしようもなく憤りを覚えるのであえて接頭語をつけている)と長年連絡を取っていなかった。しかし、2011年4月に昭和大学烏山病院へ通院した際に、主治医の先生から「どうしても親ないしは幼少時を知る人物の証言が必要である」と言われた。幼少時に何らかの異常が見られたか、育てづらかった実感があったかといった客観的な事実が必要とのことであった。
いやいやながら049で始まる電話番号に架電すると母が出た。
ものすごく事務的に上記の旨を伝えると、何かを思い出したようだった。
「3歳児健診の時に言葉が遅かったけど、『末っ子で甘えてるからお兄ちゃんやおばあちゃんが察して何でもやっちゃうから』って…」
それだ!その発語の遅れこそ発達障害の明らかすぎるほど明らかなな兆候だ!
やはり1970年代は発達障害児の暗黒時代である。2010年代なら、このような症状が見られたら「とりあえず様子見」扱いになる。
気分が悪くなったので、「それは甘えでも何でもなく私の異常性の表れだ、ふざけるなその節穴を硫酸で洗って死ね」と暴言を吐いて電話を切った。
この件を再来院した際に先生へ伝えたところ、「伝聞形式では証拠と認められない」といった感じのことを言われた。成人の発達障害者専門の病院だけあって、おそらく、そういったエピソードを調べて捏造して、発達障害の診断名を得ようとする『ファッションアスペ』(適当な命名)の来院がそれだけ多いのだろう。
しかたがないので再度通院日を予約し、その際に母を同伴するよう指示を受けた。

2011年8月の、正式な診断名が下された時のことを改めて記すだけでも記事になりそうなのだが、あまり思い出したくない不愉快な事項のため簡潔に記す。
母は私の幼少時のできごとを先生から聞かれた際、愚かにも「末っ子で甘やかされたから」ときちんと枕詞つきで上記のエピソードを繰り返した。馬鹿か。馬鹿ではないのか。いや馬鹿だ、そんなことはとっくに知っていた。
どうやら、あの瞬間まであのクソアマは私を「末っ子だから甘やかしすぎた結果子育てを失敗した」と本気で思っていたらしい。
あなたからは「わがままを言うな」「なんで普通にできないのか」「お母さん恥ずかしくて学校に行けない」とひたすらハラスメントされた記憶しかありませんが、と思ったし、本人にも直接言ったつもりだが、彼女は理解していないようだ。

どうも、母と私の間では、同じ屋根の下で違う世界が展開されていたようだ。
たいして甘やかしてもいないのに授業中に混乱したり級友との些細な齟齬でパニックを起こしたりして泣きわめく私の惨状をさんざんママ友(昭和にこんなオサレな単語はなかったが)から馬鹿にされ、「しつけ」を施した結果、度を超えて従順になり勉強では好成績を上げる私の態度に、自分の言うことを聞く私との間に親子の絆的なものを幻視していたらしい。
私は忘れ物を繰り返しては怒られ、(詳細な情報を統合する能力がないため)「絵が描けない」と授業中に泣いては怒られ、防災の日に小学校へデモンストレーションに来た起震車(地震の揺れを体感できる施設を積んだ車の正式名称らしい)に乗ってみたいという衝動を抑えきれずに泣きわめいて学校行事をストップさせては怒られた結果、すっかり萎縮しきってしまい、健全な自己主張や自己愛さえ「わがまま」であると過剰に自分を抑圧する性格になってしまったのである。日常生活に支障を来すほどの性格のおかしさを、現代の精神医学では「人格障害」、もしくは「パーソナリティ障害」と呼ぶ。
学校からもらった宿題のプリントなどの、大事なものの置き場所を決めればどこかへ紛れてなくなることがない、という概念がないので、つい思いついたところへ置いて紛失する。自分ではどこかへ置いた意識などないので、心当たりの場所をひっくり返す勢いで探すのだが、どうしても見つからない。もしかしたら母がどこかへ移動させたのではないか、という一縷の可能性にすがって聞けば、「どうして大事なものを大事なようにしないの!」と怒られる。
この抽象的な感情の発露のしかたは、発達障害児への対応として最悪のものである。「発達障害って、なんだろう?:政府広報オンライン」では、発達障害児への対処法がいくつか載っているが、「指示は具体的に、視覚的に」というのが、そのひとつとして紹介されている。
その一部を引用すると、もちろん個人差はあるが、発達障害児は全般的に抽象的な概念を理解する能力が乏しい場合が多く、また他の感覚よりも視覚が発達しているケースが多いため、「その人が理解している言葉を使い、写真や絵などを添えて説明してあげると、理解しやすくなります」とある。
実際に、成人してからも粗忽なままの私は、よく家の鍵や印鑑などの場所がわからなくなることが多かったのだが、「絶対にここに置く」と決めた場所を作ってからは、比較的ものを探す時間が減った。
私の「できないこと」のできない原因を認識することなく、ただ感情に任せて臓躁的(ヒステリック)に怒るだけでは、なんの解決にもなっていなかった、ということを、彼女はいまだに理解していない。
ちなみに私の「勉強ができた」ことを喜んだのは、別に他の子と比べて優れていたことが誇らしいというわけではなく、ただ高校受験の時に面倒を見る必要がなかっただけである。兄二人の時に偏差値的な苦労をしてきたので、私が何も言わなくても机に向かい、変な小説(今で言うライトノベル)を読みながらでもとりあえず高校へは行けそうな成績を上げる様に安心しただけである。一言で要約するとただの怠惰である。

この徹底的な無理解を示す一つのエピソードがある。
私自身は覚えていないのだが、おそらく4~6歳頃の時に、風邪か何かでかかりつけの病院の診察を受けた際、私は老先生に「注射は結構です」と言ったのだそうだ。
血の繋がった人たちの間では、なぜか笑い話になっていた。2002年頃にくたばったクソババア(同居していた愚かで馬鹿な老婆。父の母という名目だったが、どうやらそうではなかったのかもしれない)などは、箸が転がったのを見た厨二病患者でもここまで笑うまいというほどに笑っていた。
確かに、現在中年の視点を持った私には、「不相応なこと」が笑いの要因となるということは理解できる。たとえば昭和末期・平成初期頃に外国人(非アジア人)が少し片言の日本語を操っていた時には、感心とともに笑いが起きていたし、ドラマで子役の少年少女が長くて難しい台詞を言う時などに微笑ましさが起こるメカニズムはわかる。
しかし、当事者としてはまったく笑いごとではない。
記憶がないため、「私自身の物語」ではなく「小さな女の子の物語」として、その「注射は結構です」という言葉を発するまでのプロセスを推理してみる。
その女の子は、おそらく注射が怖かった。
今でも私は注射行為が苦手である。採血や点滴の際に針が皮下へと刺さっていく様を直視できずに斜め上を見てしまうし、一瞬前まで己の一部であった血液が吸い上げられていくのを見るのは怖い。もう本能的な恐怖である。
そんな風に明確な言語化はできていなかった女の子だったが、とにかく怖いことをされるのは嫌だった。
かといって、嫌だ、やめてください、と訴えても、注射を避けることはできないことも、女の子にはわかっていた。もしかしたら、その前に拒絶の意志を示したにも関わらず、注射を強要された経緯があったのかもしれない。
女の子は考えた。具体的な困難を脱するために考えを弄するのは得意だった女の子は考えた。
子供の言葉で、感情的に拒絶するから、相手にされなかったのだろう。だから、大人の言葉を用いれば、注射を打たれたくないという意志を尊重してもらえるかもしれない。
何かで、ものを断る時に「結構です」というのを見聞きした。
よし、これを使おう。
おそらく、そういった経緯があったのであろう。中年の私は、もう失われてしまった幼児の私の行動をそう定義する。発達障害者はものごとを表面的にしか受け取らない傾向があるようだが、私はその程度の想像を巡らせることができる。
だが、私の周囲の大人たちには、ことごとく想像力がなかった。もう驚くほど想像力が欠如していた。
注射を打たれたくないという必死(であったであろう)な意志は無視され、舌足らずの吃音で「けっこうです」と発語した事実だけが面白おかしく扱われた。
たとえば浴槽に落ちて飛び上がって脱出して逃げる猫を映した動画のように、「滑稽なもの」として処理された。
私は幸いにして性的暴力を受けたことはないのだが、レイプという言葉はこういう時に使われることを知っている。
被害者は乱暴で独善的な加害者に肉体や行動を刹那的な快楽の捌け口として利用され、コンテンツとして消化され、打ち捨てられる。同じ人間であるはずの対象に対して、働かされてしかるべきの想像力はかけらも存在しない。
加害者は被害者を踏みにじって、何の罪悪感も禁忌を犯した意識も持たずに生きて死ぬ。後悔はあっても反省はない。
こんな人間の皮をかぶったケダモノどもが親権を持ってはならない。

一事が万事こんな調子だった。毎日毎日新たな絶望感を味わい続けていたため、心がすっかり摩耗したのであろう。私は中学生の頃から二次元の世界に救いを求めた。紙の上やブラウン管の中の人物たちは、昨日と今日で言っていることが変わったりしないし、文字通り次元が違う存在のため、私を怒ったり嫌ったりしない。
高校は電車で約1時間かかる都内の附属高校へ進学した。ちなみに第二志望の学校だった。
ここで私は一度精神的に死ぬ。その時のことを詳細に思い出すとフラッシュバックが起きるため(本当につい今あったことのように感情が高ぶって涙を流す。カウンセリングでも記憶を掘り返すのはやめようと先生と相談して決めた)、梗概のみ記すが、私は「理解」を求めた。自分の言うことを「理解」してほしいと、額に青筋を立てて訴えた。
周囲は、人は相手のことを100%「理解」することはできない、と言った。
私にはそれが承服できなかった。共感することはできなくとも、相手の言うことを「理解」することならできるのではないか、と。
今になればわかるのだが、私の出身校は良家の子女が集う名門というほどではないものの、一応は私立大学の附属高校であった。偏差値的にも区で2~3番目の難度とされ、男子のみだが中学部もあり、6年間同じ学校へ通う生徒も大勢いた。余裕で特定可能な情報である。いわゆる底辺だとか、今で言うDQNな家庭で育った生徒はほとんどいなかったはずだ。
そういう普通の家庭で育った少年少女は、「自分の言うことがまったく通じない」という体験をまだしていなかった。しかも『家族』というカテゴライズの中の人間が、自分の行動をいちいち誤解して受け取る、などという経験は想像の外のものだっただろう。
普通の中高生は、後に『新世紀エヴァンゲリオン』で示されるように、他人と完全なシンクロを望んでは挫折したり、近づきすぎて傷つけあうヤマアラシのジレンマに苦悩したりするものである。
「jpgファイルはテキストエディタではなくイメージビューアで開いてほしい、メタタグにUNICODEと書いたからSHIFT-JISでエンコードしないでほしい」という程度のことを幼少時から徹底的に拒まれ、必死に求める同世代の人間など、きっと初めて見たに違いない。

話は戻るが、実のところ2011年8月に直接接触した時に、母と会話を交わしてはいない。私が衝動的な発作を起こさないよう距離を取り、同行者につき添ってもらった。母は私に何か悪いことをしたようなことを言っていたらしいが、私に直接謝罪したわけではなかった。
その翌日、そのことが無性に腹立たしくなった。私が悪いわけではないことをさんざん謝らせたくせに、お前は謝らないのか、と憤った。
発作的に電話をかけ、受話器を取った母に謝れ謝れ今すぐ謝れこの虐待親毒親クソ親、とわめき散らした。母は何か逃げ腰なことを言っていたが、それでも謝罪はなかった。
そのうち、わずかな無音があった。父が電話を代わったようだ。この父の言葉を、私はおそらく一生忘れない。
「虐待なんかしていない!お母さんをいじめるな!」
彼は彼の妻であるところの『お母さん』とかいう人が娘を思うさまいじめ尽くした事実を知らないらしい。
当時既に30年以上生きていたのだが、今更傷口のかさぶたを剥がされて塩水をかけられるとは、思ってもみなかった。さすが筋金入りの毒親である。並の人間にできることではない。
人の皮をかぶったケダモノは実在する、ということを再確認できた。

結局何の話かというと、同じ時間を過ごして、同じ事物に接してきたとしても、それを共有できているとは限らないということである。
母は萎縮して事務的な対応を取る私に勝手な「友達親子」的空気を読み取り、私は機嫌のいい母がいつ鬼畜になるかと怯えて暮らしていた。私の長所は暇つぶしに潰されるお菓子箱のエアクッションのように破壊され、ただ他人に怯える欠格人間だけが残った。
別に共感などはされなくてもいい。ただ私の言うことを理解してほしい。
そして願わくば少しでも想像力を働かせ、その言動に至ったプロセスを少しでも汲み取り、その茨の道のりを見てほしい。
本当に伝えたい相手へは絶対に伝わらないであろうが、私と両親以外の子と親のために、この苦しみを残しておく。

自分をどう認識するか/発達障害者の世界の見方

いきなり唯脳論的な話で恐縮ですが、人間は世界を「脳」という感覚器官を通した形でしか受容できないわけです。『姑獲鳥の夏』や『魍魎の匣』を思い起こした方は正解です。
意識というのは、人間が「意識」を意識した時にだけ現れるまやかしです。自分を囲む世界の刺激という海から、その時の自分にとって都合のいい「自分が意識している世界」だけが、潮の引いた海岸のように浮かび上がるのです。
目が悪い人は視力矯正の手段がなければ世界を朧気にしか視認できません。耳の悪い人は比較的デシベルの大きな音しか聴取できない場合があります。
そのような感じで、発達障害者は人とコミュニケーションを取る器官に異常が見られるので、いわゆる健常者とは違う世界を認識しています。

現在「発達障害」と称されているのは、ちょっと前までの基準ではアスペルガー症候群と呼ばれていた「空気の読めない」人、注意欠陥多動障害(ADHD)に代表される「片づけができない」人、学習障害(LD)と呼ばれる「別段知能が低いわけでもないのに読字や計算のできない」人、「特定不能の広汎性発達障害」という何を指しているのかわからない名称で呼ばれる「こだわりの強すぎる人」、もしくは「このどれにも当てはまらないけど生活に支障のある人」です。
何しろ問題が認識されてから30年程度しか経っていないので、臨床も研究もまだまだ不充分です。
視覚・聴覚・四肢欠損等をまとめて「身体障害」と呼んだり、鬱病双極性障害統合失調症も癲癇もパニック障害もまとめて「精神障害」と呼んだりする程度の乱暴さです。

何の話かというと、「自分が世界をどのように認識しているか」を把握することの重要性です。
同じ発達障害という症例名をつけられても、同じ症状で困っている人にはなかなか出会えないのが現状です。
例えば私はどこからどう見ても発達障害です。片づけ作業や考えるのは苦手ですが覚えるのは得意です。就学前から漢字が読めて、新聞だのゴルフ雑誌だの、活字が載っているものなら何でも読んでいました。記憶力も高く、中学生の時に読んだ『銀河英雄伝説』の、英語でもドイツ語でもない名前のキャラクター名をいまだに覚えています(スーン・スールズカリッターなど)。一度も読んだことのない『ゼロの使い魔』のメインヒロインのフルネームまで覚えています。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールです。
その割には英語の語彙を覚えたり、長文を読解するのが苦手で、「みんなexなんたらとかdisなんたらとかややこしいんじゃ!」「thatを何回繰り返せばいいんだ!何がどこにかかってるのか全然わかんねーぞ!」と心中で切れています。
自分は英語LDというやつなのではないか、と疑ったこともありますが、本当のLDだったらアルファベットの形を覚えるのも苦痛かもしれないし、なんでも症例名をつけるのも賢いやり方ではないな、と反省し、ちまちまと英語の勉強をしています。とりあえず苦労しない程度(TOEIC600点くらい)を目標に語彙力アップに励んでいます。

私と同じ障害名のはずの発達障害の友人は、とにかく人の名前を覚えることができません。普通の人の倍以上大学へ通っていた経歴を持つので、決して頭が悪いというわけではないはずの人です。
人気アニメ『キルラキル』の一挙再放送を見た後、彼(以下L氏)とこんな会話を交わしました。
私「キルラキル見た?私蟇郡(がまごおり)くん好きなの」
L「ガマゴオリって誰?」
私「ガチムチ変態ドM20歳」
L「ああ」
L氏は「生徒会長(鬼龍院皐月・きりゅういんさつき)が好き」と言っていますが、おそらく「鬼龍院皐月」という固有名詞と「自分の好きな太眉お嬢様生徒会長」の関連づけはできていません。
あまり興味のないジャンル、たとえば日本のアーティストでも、私がよく話題に出す浅井健一中村達也の名前を憶えません。「中村達也って名前がサッカー選手っぽい」と言います。その割にCMJK石田ショーキチチバユウスケは覚えます。
コンシューマーゲーム三國無双』シリーズをプレイしても、「郭嘉(かくか・金髪イケメンビリヤード使い)と賈詡(かく・うさんくさいおっさん鎖鎌使い)の区別がつかない」と言います。しかしながら「鎖鎌の人」はきちんと個別認識できている模様です。また、李典(りてん)という名前は覚えていなくとも、李典を「テレッテ」(李典役の声優・鳥海浩輔さんの別ゲームでの担当キャラクターのあだ名)と呼んで親しんでいます。
一番驚いたのは、L氏が何かの拍子に「凌統(りょうとう)と姜維(きょうい)は似ている」と言い出した時です。凌統はイメージカラー赤の呉に所属する格闘家風キャラ、姜維はイメージカラー緑の蜀に所属する槍使いです。共通点は「だいたい同じ時期に生きていた中国人男性」(プラスゲームでは比較的イケメン扱い)くらいです。
その発言を受けて、私は「ああ確かにアクセントが似ているな」と思いました。そしてL氏の『ふりがなを振れない』特性に気づきました。
L氏はものを覚えるのに音程やアクセントを重視していることがうかがえます。そして、カタカナやアルファベットの並びにはストーリー性を見出しますが、漢字の並びにはストーリー性を見出すことができないのです。たぶん。漢字が並んでいると、ごちゃっとして区別がつかなくなるのではないかと感じます。
幼少期と思春期に海外(非漢字文化圏)で過ごした、いわゆる帰国子女であったことも、関係なくもなさそうです。
だからCMJK石田ショーキチチバユウスケは覚えられるようです。「中村+達也=中村俊輔田中達也」という印象が先に出てしまうので、中村達也という文字列を固有名詞として認識できず、「サッカー選手みたい」という印象だけが残る結果となります。
この法則性を発見するまでは、彼の「人の名前を覚えない」特性にはさんざんいらいらさせられました。

こんな風に、同じ発達障害というくくりの中でも、得意分野と苦手分野が相当分かれます。
見えている・認識している世界にも、各個人ごとで開きがあります。
発達障害だからこうであるに違いない、こうあるべきだ、という決めつけは禁物です。
自分は何が得意で何が苦手かをきちんと認識すること(自分の棚卸しとも言われる作業)をして、少しでも自分にとって生きやすい世界を構築する方が、より楽に生きることができるのです。

発達障害児の世界の認識、そして終わりのない怨嗟

私は健常者になったことがない。30数年健常者のカテゴリに入れられてきたが、完全な健常者にはなれず、2011年8月に昭和大学烏山病院で正式に『非定型の広汎性発達障害』という、発達障害のことを知らないにとっては何のことだかよくわからない診断を受けた。
10年ほど前から、薄々自分は発達障害なのかもしれないという疑念を抱いてきたが、成人の発達障害専門医の診察を受けたことによって、カテゴリエラーが白日の下になった。
生まれてから30年以上、「なぜ普通にできないのか」という悩みに苛まれてきたのだが、「私は健常者ではないのだから、普通の人のように生きる必要はないのだ」と開き直ることでささやかな心の安寧を得ることができた。

そんな私の、どこかしら普通ではない器質異常のある脳を媒介として受容している世界は、おそらく健常者の方々のものとは違っている(健常な方がどんな風に世界を認識しているかというデータがないのではっきりしませんけどね!)。

例えば私は言語野の発達が比較的目立っていた。自分では覚えていないのだが、未就学の段階で新聞を読んでいた上、5歳上と3歳上の兄に漢字の読み方を教えていたらしい。また、比較的映像記憶に優れていて、例えば世界史で「コンスタンティノープルの陥落」という単語が山川の教科書の見開き左下から3行目くらいにあった気がする、という覚え方をしていた(これはあくまで例である)。
反面、「細部を記憶するがそれを統合的に再現する」能力に乏しい。真に映像記憶を使いこなす人だったら、例えば脳内に読んだ本をそのまましまうようなこともできるのだろうが、「だいたいあの辺にあった」といったぼんやりとした映像記憶の再生しかできない。読める漢字も、曖昧な形でしか覚えていないので、きちんと覚えるためには書き取りをする必要がある。
これは人の顔を覚えづらいことにも関係している。イケメンや美人はだいたい似たような顔のパーツを持っているので、区別ができない。松本潤さんと松田翔太さんを並べられると、どちらがどちらなのかわからない。松山ケンイチさんと松田龍平さんでも同じ症状が起こる。そんな場合は髪型や髪色で強引に区別するのだが、去年の紅白で松本潤さんが髪を茶色く染めていたのを見た時は、「あれ松潤さんどこ!?」と混乱した。
80年代、若い女性芸能人がみな『聖子ちゃんカット』をしていた時は地獄のようであった。

活字が載っているものなら何でも読んだ。新聞の社会面はストーリー性のある読み物だった。ゴルフ雑誌も読んだ。あまりよくわからなかった。聖教新聞も読んだ。「池田先生」という人はどうやら素晴らしい人だったようだが、その具体的な根拠は一切提示されないので、どうにも納得できなかった。
私が2010年代に生まれ育っていれば、遅くとも3歳児検診の時に『発達障害の疑いあり』というカテゴリ分けをされ、療育でコミュニケーションの障害の対策に取り組みつつ、優れたところを伸ばすような教育を受けたのであろうが、1970年代は発達障害児の暗黒時代であった。
私は今でも吃音気味で、きゃりーぱみゅぱみゅさんの名前を音読すると「かりー、ぱ、ぱむぱぶ」くらいに噛んでしまうのだが、この『発語の遅れ』を見た当時の保健師(らしい。母は嘘つきなので私に正確な情報を提供しない)はこともあろうか「末っ子で甘やかされているから、言葉に出す前に祖母や兄たちが先読みして何でもやってくれる」ためだと評したのである。
この保健師の姓名を確認してその命で私の受けた不利益を贖ってもらいに行きたいくらいには憤りを感じている。
とにかく、私はこの誤診に苦しめられた。学校で不適応を起こして泣きわめくのも、図工の授業で「絵が描けない(抽象的な断片を統合できないのだから当たり前である)」と泣くのも、みな「甘やかされてわがまま」なせいとされた。とにかく「わがまま」を抑制された。
真に「わがまま」な人間は、「自分が生きて食事をして酸素を消費することが世界にとって損失だから無に帰したい、タイムマシンで過去へ戻って着床を阻止したい」などと考えるはずがない。「わがまま」な人間は自分の利益しか考えないはずであるから、不利益を受けたら周囲のせいにするはずである。私ほど卑屈で、自己評価が低く、自分の存在を呪っていた人間を、客観的に「わがまま」と言う人はあまりいない。
ちなみに、今はそこまで病的に自分の存在を否定することはなく、「私が受精して着床して流産しなかったのは私の責任ではなく、すべて製造した彼らの責任なのだから、私は自分の存在に責任を感じることはない」と自分へ必死に言い聞かせようとする程度には健康である。はずである。

恨みごとを出力しても不毛なので本題に戻るが、私は文字列を記憶する能力に優れていた。日常会話とテレビと新聞だけで、かなりの量の語彙を習得することができた。
とはいえサンプルが社会面とニュースだけだったので、その習得された語彙には偏りがあった。
例えば、「じどう」という音を持つ熟語を、「自動」しか知らなかった。「じどうこうえん」は原始的な遊具と砂場しかない空間なのに、何が自動なのだろうかと思い悩んだ。少し大きな公園なら「児童公園」という看板があったかもしれず、字義から「子供を指す単語なのだな」と学習できたであろうが、粗末な公園には私に示唆を与えるものはなかった。
また母は裁縫が得意で、よく家で趣味や内職のためミシンを踏んでいたのだが、母のする「ようさい」はいったい何を守っているのか理解できなかった。「要塞」だと思い込んでいたのだ。これも和裁の対語としての西洋風裁縫のことであると教えてくれるものがあれば疑問は氷解したのだが、「洋裁」はあまりニュースに出る言葉ではなかった。
また小学校に上がってから、時たま給食に「むしパン」が出た。虫が入っているものなど食べられないので手をつけずに残した。虫の入っているものを食べるクラスメイトが異常なものに見えた(実際にイナゴなどを食す方へ対する攻撃ではないので悪しからず)。これも「蒸しパン」と漢字で提示されればおいしくいただいたはずだが、私がその恩恵を受けることはなかった。
「本」の敬語としての「ご本」という表現も、受け入れがたいものであった。敬語という概念を教えられていない状態において、「お箸」や「お茶碗」の「お」は「丁寧な物言いをする際の接頭語」という認識はあったのだが、「ご挨拶」「ご指導ご鞭撻」「ご愁傷様」といった単語を見る機会はなかったので、接頭語「ご」が「お」とだいたい同じようなもの、と学習する機会はなかった。むしろ、咳をすることを表す擬音「ごほん」との親和性の方が高かった。本を示される時、わざと咳き込んでみたりした(私の内面では同じものだったので)。
似たようなことはいくつもあるが、私にとって世界は不安定で、わけがわからず、理不尽なものだった。その理不尽の謎を明かそうと母に物を問うた時に返って来るのが、「揚げ足を取る」という常套句だった。
不安定な世界を解消するためにいちばん身近な大人に聞いているのに、疑問を持つこと自体が悪とされたのだ。
今、中年になった自分は、当時は明確に言語化できなかった不安定感を定義することができる。疑問を抱えて困惑していた子供の私へ、懇切丁寧な説明を施すこともできる。
この程度のこともできずに、ただ考えなしに性行をし、「生まれた命を殺すのは可哀想」などといった安っぽい感傷だけを根拠に、自分たちの限界を把握することなく無責任に一人の人間を作った人たちを、私は心の底から憎んでいる。
私は「予定日よりも5週間遅れて」生まれ、「おへそにおできがあった」ため板橋の日大病院のNICUに約1ヶ月入院していたらしい。低体重児だったわけでもなく、「おへそにおでき」という曖昧な病名で1ヶ月もNICUにいるとは考えづらいので、この時副乳を取ったものだと長年信じていたが(胃の両脇辺りに乳首の痕跡がある。膨らみや乳腺はない)、どうやら母は私に副乳があったことすら知らないらしい。こんなゆるふわな認識でも人の親を名乗れるようだ。真似できないししたくもない。
小学生の頃に私がNICUに入っていた時の話をする際、母は「毎日川越から板橋まで通うのが大変だった、乳房が張って毎日絞るのが大変だった」と私を責め、当然私はそれに対して責任を感じたのだが、今となっては「それを苦痛に思うくらいなら出産などするな」と言う。生まれようとしなかったのも異常があったのも私のせいではない。お前のせいだ。赤子へ責任転嫁するなど愚の骨頂であり、親の自覚のある人間がすることではない。そんなに親になりたくないなら、川にでも投げ込めばよかったのだ。私だって、もしその頃に三島由紀夫のような自我があれば。こんな親の許ではまともな人格形成がなされないと悟り、分娩台から転がり落ちて死んでいる。お前だけが苦労しているなどと思うな。

結局何を言いたいかと言えば、今発達障害児を持つ親御さんには、お子さんの受け止めている世界を理解するように努めてほしいのである。
もちろん各個人が抱く細かな認識の齟齬を完全に埋めることは不可能であるが、理解しようとする行動には確実に意味がある。成長した当事者が、「あの時お母さんは私をわかろうとした」と思うか、「あのクソアマは普通でない私など必要としなかった」と思うかは社会に出た後にまで大きな影響を及ぼす。発達障害者には情緒を感じる力が乏しいと言われているが、愛されたかどうかくらいは(たぶん)認識できる。そして自分を庇護する義務のある親権者がその義務を遂行すれば、当事者は必ずプラスの感情を返す(たぶん)。
世間体を取り繕うためにその場しのぎの嘘を繰り返す親は、子供に生み育てた恩を抱かせないばかりではなく、親の資格がないのに子供を作る畜生にも劣る存在として軽蔑され、唾棄される運命にある。

私のような不幸で何物にもなれないいじけた脱落者がこれ以上増えないこと、そして「うちの子は普通だし、個性の範疇だし」という愚かな思い込みによって子供から憎まれる親が増えないことを、心から祈る。