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知的饕餮日記

はてな女子で知識欲の亡者で発達障害で腐女子な人の日常だったり恨み節だったり

発達障害児の世界の認識、そして終わりのない怨嗟

私は健常者になったことがない。30数年健常者のカテゴリに入れられてきたが、完全な健常者にはなれず、2011年8月に昭和大学烏山病院で正式に『非定型の広汎性発達障害』という、発達障害のことを知らないにとっては何のことだかよくわからない診断を受けた。
10年ほど前から、薄々自分は発達障害なのかもしれないという疑念を抱いてきたが、成人の発達障害専門医の診察を受けたことによって、カテゴリエラーが白日の下になった。
生まれてから30年以上、「なぜ普通にできないのか」という悩みに苛まれてきたのだが、「私は健常者ではないのだから、普通の人のように生きる必要はないのだ」と開き直ることでささやかな心の安寧を得ることができた。

そんな私の、どこかしら普通ではない器質異常のある脳を媒介として受容している世界は、おそらく健常者の方々のものとは違っている(健常な方がどんな風に世界を認識しているかというデータがないのではっきりしませんけどね!)。

例えば私は言語野の発達が比較的目立っていた。自分では覚えていないのだが、未就学の段階で新聞を読んでいた上、5歳上と3歳上の兄に漢字の読み方を教えていたらしい。また、比較的映像記憶に優れていて、例えば世界史で「コンスタンティノープルの陥落」という単語が山川の教科書の見開き左下から3行目くらいにあった気がする、という覚え方をしていた(これはあくまで例である)。
反面、「細部を記憶するがそれを統合的に再現する」能力に乏しい。真に映像記憶を使いこなす人だったら、例えば脳内に読んだ本をそのまましまうようなこともできるのだろうが、「だいたいあの辺にあった」といったぼんやりとした映像記憶の再生しかできない。読める漢字も、曖昧な形でしか覚えていないので、きちんと覚えるためには書き取りをする必要がある。
これは人の顔を覚えづらいことにも関係している。イケメンや美人はだいたい似たような顔のパーツを持っているので、区別ができない。松本潤さんと松田翔太さんを並べられると、どちらがどちらなのかわからない。松山ケンイチさんと松田龍平さんでも同じ症状が起こる。そんな場合は髪型や髪色で強引に区別するのだが、去年の紅白で松本潤さんが髪を茶色く染めていたのを見た時は、「あれ松潤さんどこ!?」と混乱した。
80年代、若い女性芸能人がみな『聖子ちゃんカット』をしていた時は地獄のようであった。

活字が載っているものなら何でも読んだ。新聞の社会面はストーリー性のある読み物だった。ゴルフ雑誌も読んだ。あまりよくわからなかった。聖教新聞も読んだ。「池田先生」という人はどうやら素晴らしい人だったようだが、その具体的な根拠は一切提示されないので、どうにも納得できなかった。
私が2010年代に生まれ育っていれば、遅くとも3歳児検診の時に『発達障害の疑いあり』というカテゴリ分けをされ、療育でコミュニケーションの障害の対策に取り組みつつ、優れたところを伸ばすような教育を受けたのであろうが、1970年代は発達障害児の暗黒時代であった。
私は今でも吃音気味で、きゃりーぱみゅぱみゅさんの名前を音読すると「かりー、ぱ、ぱむぱぶ」くらいに噛んでしまうのだが、この『発語の遅れ』を見た当時の保健師(らしい。母は嘘つきなので私に正確な情報を提供しない)はこともあろうか「末っ子で甘やかされているから、言葉に出す前に祖母や兄たちが先読みして何でもやってくれる」ためだと評したのである。
この保健師の姓名を確認してその命で私の受けた不利益を贖ってもらいに行きたいくらいには憤りを感じている。
とにかく、私はこの誤診に苦しめられた。学校で不適応を起こして泣きわめくのも、図工の授業で「絵が描けない(抽象的な断片を統合できないのだから当たり前である)」と泣くのも、みな「甘やかされてわがまま」なせいとされた。とにかく「わがまま」を抑制された。
真に「わがまま」な人間は、「自分が生きて食事をして酸素を消費することが世界にとって損失だから無に帰したい、タイムマシンで過去へ戻って着床を阻止したい」などと考えるはずがない。「わがまま」な人間は自分の利益しか考えないはずであるから、不利益を受けたら周囲のせいにするはずである。私ほど卑屈で、自己評価が低く、自分の存在を呪っていた人間を、客観的に「わがまま」と言う人はあまりいない。
ちなみに、今はそこまで病的に自分の存在を否定することはなく、「私が受精して着床して流産しなかったのは私の責任ではなく、すべて製造した彼らの責任なのだから、私は自分の存在に責任を感じることはない」と自分へ必死に言い聞かせようとする程度には健康である。はずである。

恨みごとを出力しても不毛なので本題に戻るが、私は文字列を記憶する能力に優れていた。日常会話とテレビと新聞だけで、かなりの量の語彙を習得することができた。
とはいえサンプルが社会面とニュースだけだったので、その習得された語彙には偏りがあった。
例えば、「じどう」という音を持つ熟語を、「自動」しか知らなかった。「じどうこうえん」は原始的な遊具と砂場しかない空間なのに、何が自動なのだろうかと思い悩んだ。少し大きな公園なら「児童公園」という看板があったかもしれず、字義から「子供を指す単語なのだな」と学習できたであろうが、粗末な公園には私に示唆を与えるものはなかった。
また母は裁縫が得意で、よく家で趣味や内職のためミシンを踏んでいたのだが、母のする「ようさい」はいったい何を守っているのか理解できなかった。「要塞」だと思い込んでいたのだ。これも和裁の対語としての西洋風裁縫のことであると教えてくれるものがあれば疑問は氷解したのだが、「洋裁」はあまりニュースに出る言葉ではなかった。
また小学校に上がってから、時たま給食に「むしパン」が出た。虫が入っているものなど食べられないので手をつけずに残した。虫の入っているものを食べるクラスメイトが異常なものに見えた(実際にイナゴなどを食す方へ対する攻撃ではないので悪しからず)。これも「蒸しパン」と漢字で提示されればおいしくいただいたはずだが、私がその恩恵を受けることはなかった。
「本」の敬語としての「ご本」という表現も、受け入れがたいものであった。敬語という概念を教えられていない状態において、「お箸」や「お茶碗」の「お」は「丁寧な物言いをする際の接頭語」という認識はあったのだが、「ご挨拶」「ご指導ご鞭撻」「ご愁傷様」といった単語を見る機会はなかったので、接頭語「ご」が「お」とだいたい同じようなもの、と学習する機会はなかった。むしろ、咳をすることを表す擬音「ごほん」との親和性の方が高かった。本を示される時、わざと咳き込んでみたりした(私の内面では同じものだったので)。
似たようなことはいくつもあるが、私にとって世界は不安定で、わけがわからず、理不尽なものだった。その理不尽の謎を明かそうと母に物を問うた時に返って来るのが、「揚げ足を取る」という常套句だった。
不安定な世界を解消するためにいちばん身近な大人に聞いているのに、疑問を持つこと自体が悪とされたのだ。
今、中年になった自分は、当時は明確に言語化できなかった不安定感を定義することができる。疑問を抱えて困惑していた子供の私へ、懇切丁寧な説明を施すこともできる。
この程度のこともできずに、ただ考えなしに性行をし、「生まれた命を殺すのは可哀想」などといった安っぽい感傷だけを根拠に、自分たちの限界を把握することなく無責任に一人の人間を作った人たちを、私は心の底から憎んでいる。
私は「予定日よりも5週間遅れて」生まれ、「おへそにおできがあった」ため板橋の日大病院のNICUに約1ヶ月入院していたらしい。低体重児だったわけでもなく、「おへそにおでき」という曖昧な病名で1ヶ月もNICUにいるとは考えづらいので、この時副乳を取ったものだと長年信じていたが(胃の両脇辺りに乳首の痕跡がある。膨らみや乳腺はない)、どうやら母は私に副乳があったことすら知らないらしい。こんなゆるふわな認識でも人の親を名乗れるようだ。真似できないししたくもない。
小学生の頃に私がNICUに入っていた時の話をする際、母は「毎日川越から板橋まで通うのが大変だった、乳房が張って毎日絞るのが大変だった」と私を責め、当然私はそれに対して責任を感じたのだが、今となっては「それを苦痛に思うくらいなら出産などするな」と言う。生まれようとしなかったのも異常があったのも私のせいではない。お前のせいだ。赤子へ責任転嫁するなど愚の骨頂であり、親の自覚のある人間がすることではない。そんなに親になりたくないなら、川にでも投げ込めばよかったのだ。私だって、もしその頃に三島由紀夫のような自我があれば。こんな親の許ではまともな人格形成がなされないと悟り、分娩台から転がり落ちて死んでいる。お前だけが苦労しているなどと思うな。

結局何を言いたいかと言えば、今発達障害児を持つ親御さんには、お子さんの受け止めている世界を理解するように努めてほしいのである。
もちろん各個人が抱く細かな認識の齟齬を完全に埋めることは不可能であるが、理解しようとする行動には確実に意味がある。成長した当事者が、「あの時お母さんは私をわかろうとした」と思うか、「あのクソアマは普通でない私など必要としなかった」と思うかは社会に出た後にまで大きな影響を及ぼす。発達障害者には情緒を感じる力が乏しいと言われているが、愛されたかどうかくらいは(たぶん)認識できる。そして自分を庇護する義務のある親権者がその義務を遂行すれば、当事者は必ずプラスの感情を返す(たぶん)。
世間体を取り繕うためにその場しのぎの嘘を繰り返す親は、子供に生み育てた恩を抱かせないばかりではなく、親の資格がないのに子供を作る畜生にも劣る存在として軽蔑され、唾棄される運命にある。

私のような不幸で何物にもなれないいじけた脱落者がこれ以上増えないこと、そして「うちの子は普通だし、個性の範疇だし」という愚かな思い込みによって子供から憎まれる親が増えないことを、心から祈る。