知的饕餮日記

はてな女子で知識欲の亡者で発達障害で腐女子な人の日常だったり恨み節だったり

無理解という消極的な、しかし巨大な虐待

数回書いた通り、私は先天性の発達障害である。いわゆる「発達あるある」は9割方体験してきた。

諸々の事情により、ご実家(あれが自分の育った環境であることにどうしようもなく憤りを覚えるのであえて接頭語をつけている)と長年連絡を取っていなかった。しかし、2011年4月に昭和大学烏山病院へ通院した際に、主治医の先生から「どうしても親ないしは幼少時を知る人物の証言が必要である」と言われた。幼少時に何らかの異常が見られたか、育てづらかった実感があったかといった客観的な事実が必要とのことであった。
いやいやながら049で始まる電話番号に架電すると母が出た。
ものすごく事務的に上記の旨を伝えると、何かを思い出したようだった。
「3歳児健診の時に言葉が遅かったけど、『末っ子で甘えてるからお兄ちゃんやおばあちゃんが察して何でもやっちゃうから』って…」
それだ!その発語の遅れこそ発達障害の明らかすぎるほど明らかなな兆候だ!
やはり1970年代は発達障害児の暗黒時代である。2010年代なら、このような症状が見られたら「とりあえず様子見」扱いになる。
気分が悪くなったので、「それは甘えでも何でもなく私の異常性の表れだ、ふざけるなその節穴を硫酸で洗って死ね」と暴言を吐いて電話を切った。
この件を再来院した際に先生へ伝えたところ、「伝聞形式では証拠と認められない」といった感じのことを言われた。成人の発達障害者専門の病院だけあって、おそらく、そういったエピソードを調べて捏造して、発達障害の診断名を得ようとする『ファッションアスペ』(適当な命名)の来院がそれだけ多いのだろう。
しかたがないので再度通院日を予約し、その際に母を同伴するよう指示を受けた。

2011年8月の、正式な診断名が下された時のことを改めて記すだけでも記事になりそうなのだが、あまり思い出したくない不愉快な事項のため簡潔に記す。
母は私の幼少時のできごとを先生から聞かれた際、愚かにも「末っ子で甘やかされたから」ときちんと枕詞つきで上記のエピソードを繰り返した。馬鹿か。馬鹿ではないのか。いや馬鹿だ、そんなことはとっくに知っていた。
どうやら、あの瞬間まであのクソアマは私を「末っ子だから甘やかしすぎた結果子育てを失敗した」と本気で思っていたらしい。
あなたからは「わがままを言うな」「なんで普通にできないのか」「お母さん恥ずかしくて学校に行けない」とひたすらハラスメントされた記憶しかありませんが、と思ったし、本人にも直接言ったつもりだが、彼女は理解していないようだ。

どうも、母と私の間では、同じ屋根の下で違う世界が展開されていたようだ。
たいして甘やかしてもいないのに授業中に混乱したり級友との些細な齟齬でパニックを起こしたりして泣きわめく私の惨状をさんざんママ友(昭和にこんなオサレな単語はなかったが)から馬鹿にされ、「しつけ」を施した結果、度を超えて従順になり勉強では好成績を上げる私の態度に、自分の言うことを聞く私との間に親子の絆的なものを幻視していたらしい。
私は忘れ物を繰り返しては怒られ、(詳細な情報を統合する能力がないため)「絵が描けない」と授業中に泣いては怒られ、防災の日に小学校へデモンストレーションに来た起震車(地震の揺れを体感できる施設を積んだ車の正式名称らしい)に乗ってみたいという衝動を抑えきれずに泣きわめいて学校行事をストップさせては怒られた結果、すっかり萎縮しきってしまい、健全な自己主張や自己愛さえ「わがまま」であると過剰に自分を抑圧する性格になってしまったのである。日常生活に支障を来すほどの性格のおかしさを、現代の精神医学では「人格障害」、もしくは「パーソナリティ障害」と呼ぶ。
学校からもらった宿題のプリントなどの、大事なものの置き場所を決めればどこかへ紛れてなくなることがない、という概念がないので、つい思いついたところへ置いて紛失する。自分ではどこかへ置いた意識などないので、心当たりの場所をひっくり返す勢いで探すのだが、どうしても見つからない。もしかしたら母がどこかへ移動させたのではないか、という一縷の可能性にすがって聞けば、「どうして大事なものを大事なようにしないの!」と怒られる。
この抽象的な感情の発露のしかたは、発達障害児への対応として最悪のものである。「発達障害って、なんだろう?:政府広報オンライン」では、発達障害児への対処法がいくつか載っているが、「指示は具体的に、視覚的に」というのが、そのひとつとして紹介されている。
その一部を引用すると、もちろん個人差はあるが、発達障害児は全般的に抽象的な概念を理解する能力が乏しい場合が多く、また他の感覚よりも視覚が発達しているケースが多いため、「その人が理解している言葉を使い、写真や絵などを添えて説明してあげると、理解しやすくなります」とある。
実際に、成人してからも粗忽なままの私は、よく家の鍵や印鑑などの場所がわからなくなることが多かったのだが、「絶対にここに置く」と決めた場所を作ってからは、比較的ものを探す時間が減った。
私の「できないこと」のできない原因を認識することなく、ただ感情に任せて臓躁的(ヒステリック)に怒るだけでは、なんの解決にもなっていなかった、ということを、彼女はいまだに理解していない。
ちなみに私の「勉強ができた」ことを喜んだのは、別に他の子と比べて優れていたことが誇らしいというわけではなく、ただ高校受験の時に面倒を見る必要がなかっただけである。兄二人の時に偏差値的な苦労をしてきたので、私が何も言わなくても机に向かい、変な小説(今で言うライトノベル)を読みながらでもとりあえず高校へは行けそうな成績を上げる様に安心しただけである。一言で要約するとただの怠惰である。

この徹底的な無理解を示す一つのエピソードがある。
私自身は覚えていないのだが、おそらく4~6歳頃の時に、風邪か何かでかかりつけの病院の診察を受けた際、私は老先生に「注射は結構です」と言ったのだそうだ。
血の繋がった人たちの間では、なぜか笑い話になっていた。2002年頃にくたばったクソババア(同居していた愚かで馬鹿な老婆。父の母という名目だったが、どうやらそうではなかったのかもしれない)などは、箸が転がったのを見た厨二病患者でもここまで笑うまいというほどに笑っていた。
確かに、現在中年の視点を持った私には、「不相応なこと」が笑いの要因となるということは理解できる。たとえば昭和末期・平成初期頃に外国人(非アジア人)が少し片言の日本語を操っていた時には、感心とともに笑いが起きていたし、ドラマで子役の少年少女が長くて難しい台詞を言う時などに微笑ましさが起こるメカニズムはわかる。
しかし、当事者としてはまったく笑いごとではない。
記憶がないため、「私自身の物語」ではなく「小さな女の子の物語」として、その「注射は結構です」という言葉を発するまでのプロセスを推理してみる。
その女の子は、おそらく注射が怖かった。
今でも私は注射行為が苦手である。採血や点滴の際に針が皮下へと刺さっていく様を直視できずに斜め上を見てしまうし、一瞬前まで己の一部であった血液が吸い上げられていくのを見るのは怖い。もう本能的な恐怖である。
そんな風に明確な言語化はできていなかった女の子だったが、とにかく怖いことをされるのは嫌だった。
かといって、嫌だ、やめてください、と訴えても、注射を避けることはできないことも、女の子にはわかっていた。もしかしたら、その前に拒絶の意志を示したにも関わらず、注射を強要された経緯があったのかもしれない。
女の子は考えた。具体的な困難を脱するために考えを弄するのは得意だった女の子は考えた。
子供の言葉で、感情的に拒絶するから、相手にされなかったのだろう。だから、大人の言葉を用いれば、注射を打たれたくないという意志を尊重してもらえるかもしれない。
何かで、ものを断る時に「結構です」というのを見聞きした。
よし、これを使おう。
おそらく、そういった経緯があったのであろう。中年の私は、もう失われてしまった幼児の私の行動をそう定義する。発達障害者はものごとを表面的にしか受け取らない傾向があるようだが、私はその程度の想像を巡らせることができる。
だが、私の周囲の大人たちには、ことごとく想像力がなかった。もう驚くほど想像力が欠如していた。
注射を打たれたくないという必死(であったであろう)な意志は無視され、舌足らずの吃音で「けっこうです」と発語した事実だけが面白おかしく扱われた。
たとえば浴槽に落ちて飛び上がって脱出して逃げる猫を映した動画のように、「滑稽なもの」として処理された。
私は幸いにして性的暴力を受けたことはないのだが、レイプという言葉はこういう時に使われることを知っている。
被害者は乱暴で独善的な加害者に肉体や行動を刹那的な快楽の捌け口として利用され、コンテンツとして消化され、打ち捨てられる。同じ人間であるはずの対象に対して、働かされてしかるべきの想像力はかけらも存在しない。
加害者は被害者を踏みにじって、何の罪悪感も禁忌を犯した意識も持たずに生きて死ぬ。後悔はあっても反省はない。
こんな人間の皮をかぶったケダモノどもが親権を持ってはならない。

一事が万事こんな調子だった。毎日毎日新たな絶望感を味わい続けていたため、心がすっかり摩耗したのであろう。私は中学生の頃から二次元の世界に救いを求めた。紙の上やブラウン管の中の人物たちは、昨日と今日で言っていることが変わったりしないし、文字通り次元が違う存在のため、私を怒ったり嫌ったりしない。
高校は電車で約1時間かかる都内の附属高校へ進学した。ちなみに第二志望の学校だった。
ここで私は一度精神的に死ぬ。その時のことを詳細に思い出すとフラッシュバックが起きるため(本当につい今あったことのように感情が高ぶって涙を流す。カウンセリングでも記憶を掘り返すのはやめようと先生と相談して決めた)、梗概のみ記すが、私は「理解」を求めた。自分の言うことを「理解」してほしいと、額に青筋を立てて訴えた。
周囲は、人は相手のことを100%「理解」することはできない、と言った。
私にはそれが承服できなかった。共感することはできなくとも、相手の言うことを「理解」することならできるのではないか、と。
今になればわかるのだが、私の出身校は良家の子女が集う名門というほどではないものの、一応は私立大学の附属高校であった。偏差値的にも区で2~3番目の難度とされ、男子のみだが中学部もあり、6年間同じ学校へ通う生徒も大勢いた。余裕で特定可能な情報である。いわゆる底辺だとか、今で言うDQNな家庭で育った生徒はほとんどいなかったはずだ。
そういう普通の家庭で育った少年少女は、「自分の言うことがまったく通じない」という体験をまだしていなかった。しかも『家族』というカテゴライズの中の人間が、自分の行動をいちいち誤解して受け取る、などという経験は想像の外のものだっただろう。
普通の中高生は、後に『新世紀エヴァンゲリオン』で示されるように、他人と完全なシンクロを望んでは挫折したり、近づきすぎて傷つけあうヤマアラシのジレンマに苦悩したりするものである。
「jpgファイルはテキストエディタではなくイメージビューアで開いてほしい、メタタグにUNICODEと書いたからSHIFT-JISでエンコードしないでほしい」という程度のことを幼少時から徹底的に拒まれ、必死に求める同世代の人間など、きっと初めて見たに違いない。

話は戻るが、実のところ2011年8月に直接接触した時に、母と会話を交わしてはいない。私が衝動的な発作を起こさないよう距離を取り、同行者につき添ってもらった。母は私に何か悪いことをしたようなことを言っていたらしいが、私に直接謝罪したわけではなかった。
その翌日、そのことが無性に腹立たしくなった。私が悪いわけではないことをさんざん謝らせたくせに、お前は謝らないのか、と憤った。
発作的に電話をかけ、受話器を取った母に謝れ謝れ今すぐ謝れこの虐待親毒親クソ親、とわめき散らした。母は何か逃げ腰なことを言っていたが、それでも謝罪はなかった。
そのうち、わずかな無音があった。父が電話を代わったようだ。この父の言葉を、私はおそらく一生忘れない。
「虐待なんかしていない!お母さんをいじめるな!」
彼は彼の妻であるところの『お母さん』とかいう人が娘を思うさまいじめ尽くした事実を知らないらしい。
当時既に30年以上生きていたのだが、今更傷口のかさぶたを剥がされて塩水をかけられるとは、思ってもみなかった。さすが筋金入りの毒親である。並の人間にできることではない。
人の皮をかぶったケダモノは実在する、ということを再確認できた。

結局何の話かというと、同じ時間を過ごして、同じ事物に接してきたとしても、それを共有できているとは限らないということである。
母は萎縮して事務的な対応を取る私に勝手な「友達親子」的空気を読み取り、私は機嫌のいい母がいつ鬼畜になるかと怯えて暮らしていた。私の長所は暇つぶしに潰されるお菓子箱のエアクッションのように破壊され、ただ他人に怯える欠格人間だけが残った。
別に共感などはされなくてもいい。ただ私の言うことを理解してほしい。
そして願わくば少しでも想像力を働かせ、その言動に至ったプロセスを少しでも汲み取り、その茨の道のりを見てほしい。
本当に伝えたい相手へは絶対に伝わらないであろうが、私と両親以外の子と親のために、この苦しみを残しておく。