知的饕餮日記

はてな女子で知識欲の亡者で発達障害で腐女子な人の日常だったり恨み節だったり

バカミスの定義 ~ 『悠木まどかは神かもしれない』と『ソードアート・オンライン』の間

日本ミステリ界には、『バカミス』と定義される作品群がある。
この言葉の定義は人によって大いに違うのだが(Wikipediaさんでも一定ではない)、私は『ものすごい頭脳的・論理的膂力で世界を一変させるもの』だと思っている。
一番わかりやすいのは叙述トリックであろう。話者、ひいては作者が、注意深く『あること』を取り扱い、『あるもの』を読者の視界から取り除く。「あれ?なんかおかしいな」と思いながら読み進める読者は、クライマックスで明かされる『あるもの』の真実にびっくり仰天する。
日常生活とは違い、フィクションで騙されることは、作者の稚気やいたずら心を強く感じ、その手腕に騙されてしまうことに快楽を覚えるうち、その中毒になる。
かくしてバカミス中毒者は東に叙述あれば行って買い求め、西に館ものあれば行って感想を言う。

そんな中、『悠木まどかは神かもしれない』という作品が『バカミス』である、という噂を聞いた。

悠木まどかは神かもしれない (新潮文庫)

悠木まどかは神かもしれない (新潮文庫)

早速買い求めた。そして昨日読了した。
感想を一言で言えば、「紛らわしいことを言うな!」であった。
確かに帯には『バカミス』と書いてある。タイトルで『魔法少女まどか☆マギカ』ファンを釣りながら、バカミス愛好家をも取り込む気満々のマーケティングである。前者はともかく、後者は『より純粋に騙される』ために、タイトル以外の情報を事前にシャットアウトすることが多い。事実、私もなるべく帯や煽りを見ないように、ブックカバーを装着して読書に臨んだ。
実際、バカバカしさは図抜けている。
進学塾の御三家コースに通う小学五年生の主人公・小田桐美留(おだぎり・びる、男児。通称小田桐キョージュ)にとって、学校はあまり楽しい場所ではないことがうかがえる(ビル・ゲイツにあやかった名前だが、学校では字面から『留美ちゃん』と呼ばれ、からかわれているらしい。いわゆるキラキラネームをつける親の警鐘を鳴らすくだりもある)。そんな彼にとっての安らぎは、アインシュタイン進学教室の御三家コースでの受験勉強、また同じコースに通う才色兼備の美少女、悠木和(まどか)を見ること、また塾での勉強が終わった後にマッテルバーガーで『キョージュ会』を開くことである。
このマッテルバーガーの店舗設定がおかしい。我々の世界におけるマクドナルドに近いようだが、門構えから居酒屋風で、ファストフード店然としていない。店長はねじり鉢巻を頭に巻いて江戸っ子調で喋る大将風、レジスター担当は制服ではなくナポレオンのような軍服を着ている男装の麗人、新入りは日本文化に憧れて店長に弟子入りするオーストラリア人である。「こんなマッテルバーガーはこの店くらい」という描写があるように、この世界でのスタンダードなファストフード店であるわけではない。
そして小田桐キョージュたちがキョージュ会で角突き合わせて挑む謎が、極めて日常的である。それはミステリという、血なまぐささが目立つジャンルにおいては「バカバカしい」とされるものかもしれず、それゆえ帯には『バカミス』と記されているのであろう。

だが、バカミス愛好家の求めるバカミスは、こういうものではない。

「実はレールでした!」「実は老人でした!」「実はニャルラトホテップでした!」といった真相を覆い隠すために幾重もの論理的罠を張り、読者を幻惑させ、真相を知った読者が先頭から読み返しても破綻なく収まっているもの、ひとつの驚愕すべき真実のために作品のすべての要素が奉仕しているもの、あくまでフェアなもの、それをバカミスと呼ぶのである。

しかし、論理的罠があり、破綻がないものをすべてバカミスと呼ぶわけではない。

それを説明するために、『ソードアート・オンライン』(通称SAO)の例を引こう。

今更私などが解説するのも口はばったいが、『ソードアート・オンライン』はこういう話である。
近未来、特殊なヘッドギアが発明され、仮想空間を現実のように受容できるMMORPGソードアート・オンライン」がリリースされる。
ゲーマーたちは競ってその世界へ入るが、開発者の悪意ある改変により、全員ログアウト不可能になってしまう。
おまけに、前述の特殊なヘッドギアのせいで、ゲーム内で死ねば現実世界の肉体も死に、外部から強制的にヘッドギアを取り除こうとすれば脳が損傷される、と脅され、約1万人のユーザーたちは窮地に陥る。
そんな絶望とそれに対する順応の入り混じる中、主人公のキリトくんが、ゲーム攻略に活躍したり、仲間との死別を味わったり、ヒロインのアスナちゃんとの仲を深めたりする。
実は私も原作は未読で、アニメの再放送を視聴しているだけなので、あまり大きなことは言えない。作者の川原礫氏はFSSファンということで親近感があり、デビュー作の『アクセル・ワールド』も購入してはいるのだが、積読本の山に埋もれている始末である。
閑話休題
作中、キリトくんとアスナちゃんの前で、殺人事件が起きる。
前述の通り、作中世界は、どれほど精巧であろうと、プログラム内での挙動でしかない。そのため、死ねば遺体は消える、現実的には実現不可能な道具もアイテムとして開発できる、といった現実世界との相違点がある。
こういったことを踏まえ、キリトくんたちは事件を解決する。真相を語る場ではないのでここでは書かない。
アニメを視聴しながら、私は「バカミスっぽいなー」と思った。SAO世界においてのみ実現するシチュエーションを用いているからだ。
しかしすぐに脳内バカミス審査装置が働き、「これはバカミスではない」という結論に至った。

バカミスバカミスでないものを分けるもの

理由は明快で、『SAOがトリックのために造られた世界ではない』からだ。
確かにMMORPG・SAOでなければ成立しないトリックが用いられ、その論理に基づいた推理がなされる。
しかしそれはあくまでゲームシステムに則ったものである。「地球の重力は約1G」「月の重力は約1/6G」という物理原則を用いたトリックと、本質的には変わらない。
我々の愛するバカミスは、『そのトリックを成立させるためだけにすべての要素が奉仕している』ものである。
突飛な設定も、登場人物の奇妙な挙動も、すべてがラストで驚愕するために配置されている。それがバカミスなのだ。
もしもSAOというゲームシステムが、このトリックを成立させるためだけに存在するものであれば、私は敬意をもって『バカミス』の冠を捧げる。
しかし、実際の事件は、SAOのゲームシステムを利用しただけの犯罪であった。この事件の中で、いくつかのゲームシステムが説明され、キャラクターが描写され、設定が明かされた。このトリックのためにゲームシステムがあるわけではなく、ゲームシステムのためにトリックがある。

『手段』と『目的』

結局、バカミスでないものとバカミスを分かつ条件は、上の言葉に象徴されるのではないだろうか。
どれほどバカバカしいものでも、それが『手段』でしかないならバカミスではない。『目的』に集約されるならバカミスである。