知的饕餮日記

はてな女子で知識欲の亡者で発達障害で腐女子な人の日常だったり恨み節だったり

ホモカップリングは叶わないからこそ、そして「鵺まだか」 - 『デュラララ!! 竜ヶ峰帝人サーガ』終了によせて

デュラララ!!』というライトノベルがある。
作者は成田良悟、イラストレーションはヤスダスズヒト。池袋を舞台に、都市伝説をモチーフとして日常と非日常の狭間を描く群像劇である。2010年にアニメ化されて大変な人気を博し、14年3月にはファンが待ちに待った第二期の製作決定の発表があった。おそらく秋か、遅くとも冬には放映されるだろう。この説明ではまったく面白く感じられないが、実際読むととても面白い。ものすごい膂力で伏線を回収する手腕には、純粋な感動を覚えるほどだ。

デュラララ!! (電撃文庫)

デュラララ!! (電撃文庫)

この作品について語ることはいくつかキープしているのだが、今日は妄想についてのよしなしごとを述べたい。

おっさんが可愛く見える病気

に、私は罹患している。特に繊細な内面といかつい外見のギャップだとかアンビバレンツなどを抱えているおっさんを見つけて可愛い可愛いと萌え転がるのが大好きである。おそらくルーツは京極夏彦百鬼夜行シリーズの木場修太郎である。
そんな私は、『デュラララ!!』シリーズでは赤林という人物のファンである。
赤林は作中の広域指定暴力団『粟楠会(あわくすかい)』の幹部である。かつては触るものみな傷つけるジャックナイフのような凶暴さしかなかったのだが、人間を愛し、そのために自己増殖する生きた妖刀『罪歌(さいか)』を身の内に宿した既婚女性・園原沙也香に惚れたことで人間的な感情を獲得し、今ではふわふわした印象を周囲に与えることに成功している。
その内面描写を読んだ時は、好みのストライクゾーンのど真ん中に130km/h台のストレートを投げ続けられたような気持ちになった。動悸がした。
自分を『おいちゃん』と呼び、三十代にして好々爺のように柔和な笑みを浮かべる顔の下に隠れた内心を思うだけで、軽くトリップすることが可能である。変態だ。

デュラララ!!』の簡単なあらすじ(ネタバレ注意)

当初は愉快な人間と人外が大集合する一巻完結の物語であったが、(おそらく)アニメ化の都合や読者の要望により、透明なカラーギャング・『ダラーズ』の創始者である少年・竜ヶ峰帝人(りゅうがみね・みかど)に焦点が当たってゆく。
帝人の同級生には、中学時代に挫折を経験した、カラーギャング『黄巾賊』の元リーダー、紀田正臣と、悲惨な幼時環境から自らの存在意義を見失い、妖刀『罪歌』に寄生している少女、園原杏里がおり、この三人の友情と挫折と再生の物語に、すべての登場人物が巻き込まれてゆく。
この園原杏里は、前出の園原沙也香の娘である。酒とドラッグに溺れた夫(杏里の父)との生活に行き詰まった沙也香が夫を殺し、自らも死を選ぶ。宿主を失った『罪歌』と保護者を失った杏里が結果的に共生しているのだが、これは作中の限られた人物しか知らない。
赤林は惚れた相手に振られ、しかも守れなかった(沙也香の夫にドラッグを売りつけていたのは、赤林がかつて所属していた組織の手先だった)ことに自責の念を覚えており、残された杏里に何くれとなく世話を焼いている。

『おいちゃんを幸せにし隊』活動

人が何を思ってコンテンツを受け取るのか、それはそのコンテンツの性質や与えられた環境や受け取る人間の個性とか、そういった多義的なものに左右される。一般論を求めるのは難しいが、「少なくとも私の場合」を言うことはできる。
少なくとも私の場合、「おいちゃん(赤林)と杏里ちゃんに幸せになってほしい!」と強く思ってしまった。
赤林は柔和な印象と、『赤鬼』とあだ名される凶暴さと、乙女的あるいは素人童貞的な純粋さを持ち合わせており、ひどく生きづらそうな印象を振りまく。『生きづらい』人に幸せになってほしいと考えてしまうのである。
そして、杏里と接する時の優しさや、杏里を案じる時の内面描写は、「おいちゃん杏里ちゃんの好きなのかな…」と想像するに足るものであった。一度確立した見方は、「おいちゃんと杏里ちゃんが結ばれればいいな…」という欲望を生み出す足場として充分なものだった。
冷静に考えれば、ライトノベルの主購読層の中高生にとって、三十代のおっさん(親と同世代かもしれない)はまったく恋愛対象ではない。杏里は竜ヶ峰帝人サーガにおけるヒロインであり、帝人と結ばれる未来が期待されている。私の思い描く展開など望むべくもないのだが、現実から目を逸らすスキルだけは鬼のように高い中年は、ただ量刑判決をされない間あがき続けた。

2014年1月10日、『デュラララ!!』13巻刊行。

ここにおいて、竜ヶ峰帝人サーガは幕を下ろした。
それは私にとってそれほど重要なことではなかったが、帝人の物語が終わったことで、四年間囁かれ続けた『二期』が具体性を伴ったことは理解した(二ヶ月後、その直感が正しかったことを知る)。
結局帝人杏里がはっきりと心を通わせ合うことはなかったのだが、それ以上に衝撃的なことが私を襲った。
赤林が、内面においてはっきりと「杏里への恋心はない」と明言してしまったのである。
沙也香への恋心と、その娘の杏里への親心は別である、とはっきり書かれてしまったのである。
私は割と古いタイプの教条的なオタクで、「原作に描かれていないことはいくら妄想してもいいが、原作で描かれたことには忠実でなければならない」と思っている。『原作でちょっとだけ仲のいい人たち』が舞台裏でいちゃついているのを想像して萌えることは可能だが、『原作で仲の悪い人たち』ではあまり萌えられない。思春期にメタミステリの影響を受けてしまったため、『テキストは絶対的に正しい』という思い込みを崩すことが難しくなっているのであろうと推察できる。
本編の1/3辺りでの赤林の発言を受けて、「フラグ折られた…成田さん御自らの手でバッキバキに折られた…」と悲嘆に暮れながらページをめくっていた。自分の1月10日のツイートを見ると、いかに絶望したかが未練がましくつらつらと綴られている。

そもそもヘテロカップリングに夢を見ることが間違っている

現在、いかに性の多様化が謳われていても、やはり多数派は異性間(男女)の愛情、つまりヘテロセクシュアルである。同性間のホモカップリングはなかなか最前面へ出ることはない。
いきおい、ヘテロに夢を見ると、原作からおおいに裏切られることがある。オタクを始めて四半世紀経って、充分に汚れた私は、そんな当たり前のことを忘れていたのだ。
そのことに思い至った時、電撃文庫のページを繰る私の後ろで、厨二の私が囁いた。
「お前の好きな青木くんとお前の大好きなマスカマは絶対にくっつくことはないが、その代わり絶対に『恋心はない』などと断言もしないぞ」と。
私は19年前に百鬼夜行シリーズを読み始めて、あの分厚い本を何度も読み返してしまうほどのファンである。その登場人物の警視庁刑事・青木文蔵と、元神奈川県警刑事で現在探偵助手の益田龍一(通称マスヤマもしくはマスカマあるいはカマオロカあるいはバカオロカ)の二人が最近のお気に入りで、『邪魅の雫』や『百器徒然袋』を読み返しては青木くん意地悪だなぁマスカマ可愛いなぁと悶えている。
それを受けての厨二発言に、中年の私は感得した。
人はなぜ何故にホモカップリングの妄想をしてしまうのか。
それは『絶対に叶わない』のと引き換えに『絶対に壊されない』ためである。
ヘテロカップリングは作中で叶ってしまうがゆえに、自分の好きなキャラクターが自分の好きなキャラクターと結ばれないことも覚悟せねばならなかった。
ホモカップリングにはそれがない。絶対に叶わないがゆえに、「でも別に妄想するのは自由だし」と、恋物語を捏造することができる。なぜなら、原作で「この二人は結ばれませんよ」と明言されることはまずないからだ。
オタクとしての初期衝動を思い出し、己の中にこんな純粋な気持ちが残っていたのか、と驚いた。

今では

百鬼夜行シリーズの最新作としてアナウンスされている『鵺の碑』が出版されることを毎日祈りながら日々を過ごしている。
おそらく講談社ノベルスではなく、たぶん角川、もしかしたら文藝春秋から出版されるであろう、昭和29年1月以降の日光を舞台としたと思しき小説を待ち続ける作業にシフトしたのだ。
青木くんとマスカマは前回『邪魅の雫』でフィーチャーされたので、今回はあまり出番がないであろう。しかし、二人がそこに存在していることが重要なのである。
十二国記』も『ファイブスター物語』も『タイタニア』も再開されたのだから、待っていればそのうち『鵺の碑』が出版されるに違いない。
一瞬『グイン・サーガ』とか『裸者と裸者』とか『石動戯作シリーズ』などが浮かんでしまったが、都合の悪いものは見ないふりをする。
更には今年は京極夏彦作家業20周年なのだから、何かしらのイベントがあるに違いない、と信じていたのだが、4月時点で何の発表もないから、たぶん特にはないのだろう。
私はただ、信念に基づいて呟き続ければいいのである。『鵺まだか』と。

文庫版 邪魅の雫 (講談社文庫)

文庫版 邪魅の雫 (講談社文庫)