読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

知的饕餮日記

はてな女子で知識欲の亡者で発達障害で腐女子な人の日常だったり恨み節だったり

文化資本が貧困であるということ

教養主義の時代は終わった、と方々で言われているが、それでも最低限の教養があったほうがはるかに生きやすいし人生も楽しい。文化資本が豊かなら、目の前のできごとをただの具象として処理するにはとどまらず、その背景やそこへ至る人々の心の動きを想像し、補完してより深い楽しみを得ることができる。ウクライナ問題にせよ、TPPにせよ、2ちゃんねるの運営権を巡るいさかいにせよ、教養がなければただのニュースの見出しだが、中央アジアの歴史や、日本農業の課題や、2ちゃんねる運営の人間関係を知れば、事態の推移の予想が可能だし、想定外のできごとが発生した場合は驚きが湧き、知的好奇心を満たすことができる。艦これも、ただ女の子を育てるだけではなく、擬人化の元ネタの船舶についての知識を学べば、より艦娘を好きになることもできる。

そもそも文化資本とは何か

毎度毎度Wikipediaさんへ頼るのも私の文化資本の欠如の表れなのだが、Wikipediaさんの定義では、

金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産を指す

とある。
要するに、生まれてから今までの間に培ってきた知識と、それに付随する学歴だとか肩書などの総称である。
これは他の資本とは違い、金銭的な面で劣っていても高めることができる。
だが、現実は無惨なもので、文化資本の高低は経済資本のそれとある程度比例する。もちろん、貧しくても子供に知識を身につけさせることを目指している親も一定数いるが、大概の馬鹿は子供の教育には無関心である。学校のテストの点を見ることはあっても、読み聞かせなどで本を読む習慣をつけさせるとか、身銭を切って手軽に読める本を揃えるとか、そういったことはしない。
そういった馬鹿に育てられるとこうなるという、実体験を記してみる。

例えば、知人に清顕さんという人がいるのだが

これはもう、どう考えても、三島由紀夫が市ヶ谷で切腹する前後に書かれ、発表された『豊饒の海』のキャラクターにちなんで命名されたものであろう。名前ひとつに家庭の文化資本の高さがにじみ出ている。もしかしたら、私の次兄の漢書(仮)のように、劉邦も漢もまったく知らない馬鹿が適当に名づけた名前が史書と偶然一致したのと同じという可能性がないこともないが、かなり低く見積もることはできるだろう。
漢書(仮)という名前は、例えるならところてんやクラゲの当て字を知らずに心太や海月と名づける馬鹿と同列に論じることができる。名づけはその人の一生を決定づける行為であり、「この文字列には別の読み方や解釈があるのではないか」といったことを考え、決めるものだ。馬鹿はそうした想像を一切巡らすことがない。辞書を引くことすらしない。ゆえに馬鹿は馬鹿なのである。

また、長じてからも

私は偏差値的学力と比して文化資本が少ないと感じることがままあった。
宇月原晴明信長―あるいは戴冠せるアンドロギュヌス (新潮文庫)』を読んだ時のことである。この小説はただの戦国ものではなく、後に『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』をものすアントナン・アルトーが、ベルリン滞在時に日本人将校の総見寺から「織田信長は両性具有だった」と聞かされ、かねてからの懸案だったヘリオガバルスと信長を比較して論ずる書物を執筆するという、相当変わった作品だ。
アルトーの研究を親衛隊(SS)が妨害しようと襲いかかったところを、ナチス左派のオットー・シュトラッサーの助けの手が入る。オットーはナチスに属してはいるがヒトラーとは距離を置いており、ヒトラー直下の親衛隊の動向に気をつけるようアルトーへ警告する。
この二人が実在の人物であり、アルトーが実際に『ヘリオガバルス』を出版したことを知ったのは、読了後のことであった。

また、高村薫『晴子情歌』を読んでいた時は。

作中の全共闘世代の若者たちが、「伊東静雄を読んでいて当然」といった空気をはらんで動き、しゃべり、煩悶する。「これは中村青司*1や霧間誠一*2的なアレなのかと思っていたら、きちんと実在しており、一定の評価を得ている人物だった。
「当然知っているべきもの」を知らない己の教養の欠如に、少なからず衝撃を受けた。

文化資本の貧困問題

母は思い切り団塊だし、父は戦前生まれといっても敗戦時は幼児だったから、戦前教育は受けていないはずだ。『晴子情歌』の登場人物と同年代ということになるが、きっと彼らは伊東静雄を知らないであろう。想像でしかないが、書棚の貧弱さから推して知ることはできる。
よく本読みたちは「ベストセラーしか読まない」人を馬鹿にするものだが、世の中には「ベストセラーすら読まない」人間もいるのである。例えば、村上春樹が『ノルウェイの森』で一般人にも知られるようになったのは87年のことだが、上下巻430万部売れた本が、あの家にはなかった。貧乏人は本を買うような浪費を避け、知的貧困をより強めるのである。
あの家にあってありがたかったものは、『横山光輝三国志』と『学習まんが日本の歴史』くらいである。なぜそれらが家にあったのかを、私は知らない。兄たちがせがんだという可能性はあるが、だとしてもきっとそれはただ欲しがるものを買い与えただけのことで、経済的貧困を文化資本で補おうといった積極性や目的意識はなかったはずだ。馬鹿は後先を考えない。

去年、姪が4人いることが判明した

私自身は子供を持たない(彼らの子供を好きになれないのに、彼らの孫など虐待する気しかしない)が、兄は私のように葛藤しなかったらしい。
私が恐れているのは、文化資本の低さの連鎖である。別に勉強ができればいい人生を送れるわけではないが、知識を与えられる機会が少なければ、個人の持つ文化資本は低いままである。
あまりよそ様の家庭に口を出すものではないが、「知っておいた方がいいこと」を知らされずに生きることの心細さややるせなさを味わっている身としては、なんとか少しでも文化資本口伝したくなる。
親の馬鹿さに振り回され、しなくてもいい苦労をし、与えられるべきものを与えられないのは、私一人で充分である。
そのうち、『姪のためのブックガイド』などを書くかもしれない。
賢ければ馬鹿のふりをすることも可能だが、馬鹿には賢人の真似などできないのである。

信長―あるいは戴冠せるアンドロギュヌス (新潮文庫)

信長―あるいは戴冠せるアンドロギュヌス (新潮文庫)

晴子情歌(上) (新潮文庫)

晴子情歌(上) (新潮文庫)

晴子情歌(下) (新潮文庫)

晴子情歌(下) (新潮文庫)

*1:綾辻行人『館』シリーズに登場する架空の建築家。変な家をたくさん作る

*2:上遠野浩平の作品群に登場する架空の作家。上遠野作品の巻頭辞は、霧間誠一の著作からの引用という形を取るものが多い